いせはら社協だより第121号の4面に掲載されている「伊勢原市民生委員・児童委員、主任児童委員通信 vol.4」の内容は、紙面の都合上、一部抜粋した内容となっておりましたので、ここで全文をご紹介いたします。
伊勢原市民生委員・児童委員通信 大山高部屋保育クラブの歴史
仰ぎ見れば、北方にくっきりと雄大な姿を浮かべる「丹沢大山国定公園」、その北東には国宝「日向山宝城坊」を構える日本3薬師でもある日向薬師が存在し、南方には大田道灌の「首塚」洞昌院と、まっこと自然と歴史に包まれた地域の子ども達、高齢者のお手伝いをしているのが我ら大山高部屋地区民児協の面々であります。
複雑多様化する子ども社会、超高齢化に伴う高齢者の諸問題、これらに対応するために各委員は行政及び関係機関と連携を密にして最善の結果を得るべく、尽力しております。
その中にあって、他とは一味違った活動があります。それは、「大山高部屋保育クラブ」です。地元の親子に参加していただき「子育てアドバイザー」の活動を永きにわたり積極的に行ってきました。
大山高部屋地区民生委員児童委員協議会が主宰する「大山高部屋保育クラブ」の歴史は永い。1934年(昭和9年)明人(アキヒト)親王ご生誕として「恩賜財団愛育会」が創立された。子どもの死亡率が最も高かった高部屋地区は恩賜財団愛育会より全国5村の中の1村として、1936年(昭和11年)「愛育村」の指定を受けました。
1936年日本の母子支援が初めて事業化され保険・福祉の専門性を持った支援が提供され、国の委託事業として愛育研究所と愛育病院が開設されました。
1938年(昭和13年)指定村任期満了に伴い「愛育研究所」は「高部屋村愛育保健協会」に改名し、翌1939年農繁期託児所が設置され、1939年には、愛育研究所教養指導部により季節保育所の設置、また全母親を対象とする「講座」の毎月の開催など高部屋地区母子は「専門的な指導を受けました、この「講座」が保育クラブの前身といわれています。
愛育事業は「恩賜財団愛育会」~「恩賜財団大日本愛育会」~「恩賜財団母子愛育会」~「社会福祉恩賜財団母子愛育会」と改名して来たが、戦後不況の社会情勢の中、愛育事業は「伊勢原町高部屋愛育会」~「財団法人高部屋愛育会」に移行し継承されました。
1967年(昭和42年)3月「財団法人高部屋愛育会」の業務停止に伴い、愛育事業は活動停止となったが、愛育事業は地元婦人会と女性民生委員により細々と継承されました。
1967年(昭和42年)10月民生委員により「保育クラブ」が発足され、愛育事業は継承され、1973年(昭和48年)大山民児協と高部屋民児協の合併により現在の「大山高部屋保育クラブ」と名称を改め、愛育事業の精神は今日まで脈々と受け継がれています。令和7年は講座から87年、保育クラブ設立から58年目になります。
現在の活動は伊勢原市内在住の未就学児童を対象とし、健全な子育てのサポートを主な目的とした、母親学級(情報提供、母親同士のコミュニケーションを図る。)を屋内・屋外において年11回多種に及び開催しています。特に屋外での「いちご狩り」「サツマイモ堀り」「みかん狩り」は人気を博しています。

